いつもポジティブに
今までもそしてこれからも猪突猛進に突き進む
仙台市宮城野区にある学問の神様、榴岡天満宮のすぐ近くにある東北愛犬専門学校を訪ねた。少し早めに着いたが1階の受付で用件を伝えると4階の職員室へと案内された。階段を上り息が落ち着いたところでノックをして扉を開けると、かわいいわんちゃんたちが今にも飛び出しそうな勢いで顔をのぞかせた。奥から「ちょっと待っていてくださーい」と女性の声。戸を閉めしばらく待つと中から「どうぞ~!」と元気な声で呼びこまれた。
この声の主が今回の主役、東北愛犬専門学校校長の牧野なぎささんだ。
こちらの学校はなぎささんのご両親が1982年に設立した。当時の学校名は「東北愛犬高等美容学院」。東北で初めてできたトリマーの養成機関である。

当時のペット事情は今とだいぶ違っていて、犬は外で番犬として飼っている家が多かった。特に東北地方はその傾向にあり、今のように定期的にシャンプーをしたり、トリミングをするという習慣はあまりなかったのだ。そんな時代になぎささんのご両親は青葉区の定禅寺通りでペットサロンフレンドハウスを経営していたのだが、東京の学校でトリミングの技術を学んだなぎささんのお父さんはこの地にもそういう文化を根付かせたいと考え、最初は塾のような形でトリミングの技術を教える学校を始めたそうだ。
なぎささんは幼少期から父親が専門学校、母親がペットサロンと当時にはまだ珍しい共働きの家庭で育ったため、自然と家事を覚え弟の面倒を見ながら過ごしたそうである。忙しい両親と接する時間は少なかったが、寂しいとは思ったことはなかったそうだ。むしろ自立するために必要なことを学べたと今は両親に感謝している。
専門学校とペットサロンで働く両親の背中を見て自然と同じ道に進んだのかと思ったが、実はそうではなかった。家族旅行でグアムやサイパンなど海外旅行をして生の英語に触れた中学生のなぎささんは、通訳を仕事にすることが目標となった。高校受験の際にはアメリカの学校に行く事も真剣に考えたようである。実際は日本の高校に入学し2年生の時にアメリカのミズーリ州へ留学。留学先のホストファミリーの好意で夏休みが終わるギリギリまでの約14カ月間留学生活を楽しんだ。大好きな英語に囲まれて日本では味わえない経験をしていたなぎささんは一度もホームシックにならなかったそうである。とにかく毎日が刺激的で日本にいる家族に早く会いたいとは思わなかったそうだ。そんななぎささんだがひとつだけ、さみしいと思うことがあった。それは実家で飼っている犬に会えないこと。


留学期間を終え帰ってきたときには高校3年生。進路を決めなくてはならない大事な時期。一度決めたら突き進む娘の性格を理解していた母親は、留学はさせたものの、獣医大学へ進学してほしいと考えていた。しかし娘は首を縦に振らない。ならばせめて外語大へ進学してほしいというとそれも拒否。大好きな英語に携わる仕事をしたかったはずなのだが、留学したことで通訳という仕事に魅力がなくなってしまったのである。それよりも離れて気づいたペットへの愛。そこで両親がやっている学校ではなく、東京のペット専門学校への進学を希望したのだが、すでに入学願書の締め切りは終わっていた。さらにそのタイミングで愛犬の死に直面し、父親の勧めもあって両親がやっている専門学校の看護学科で学ぶこととなった。
トリミング等の技術を学ぶのも素晴らしいことだが、動物の体の事を学び知識が増えることがとても楽しかったそうだ。そんな中で、尊敬できる先生に出会う。その先生は東京で獣医師をやっていて、学校へは講師として来ていた。そしてその先生から人と動物の在り方を学んだ。

卒業後はその先生の下で働きたいと東京へ行くのだが、先生のいる動物病院から門前払いをくらう。その理由がなぎささんの「見た目」だった。当時、安室奈美恵全盛期。なぎささんもご多分に漏れずしっかりアムラーだったのだ。こうと決めたらとことん突き進むなぎささんの事だから、「かなりのアムラー」だったに違いない。その見た目で信頼がおけないという理由で断られたそうなのだが、本人も認める猪突猛進型のなぎささんは一度断られたその動物病院で働くために、アムラーファッションをきっぱりとやめ、1月2日からその病院に押しかけ雇ってくれるように頼んだのだ。きっと病院側も面食らったことだろう。しかしそこまでして仙台から出てきたのだからきっと根性はあるだろうと認められ、師匠となる先生の下で動物看護師として働けることとなった。
2年ほどたったある日、それまで一度も弱さを見せたことがなかった母親からそばにいてほしいと連絡がくる。癌に侵された母親は娘に帰ってきてほしいと願ったのだ。
それまで自由に好きなことをさせてくれた母親。留学するときも東京で就職するときも応援してくれた母親が初めて弱さを口にしたことに衝撃を受ける。そして今こそ親孝行するときなのだと考え、大好きだった職場に別れを告げ仙台へ戻ってきた。戻ってきてからは実家の専門学校の講師として教壇に立つのだが、はじめはその仕事にやりがいを見い出せないでいた。自分がやればすぐに終わることも未熟な生徒たちには時間がかかる。そこにもどかしさを感じていたそうだ。そんな時、理事長である父親から「自分も同じ思いを経験したが、自分の持つ知識や技術を教えることで目の前の30人の生徒だけではなく、そこからどんどんとその教えが広がっていくのだよ」と諭された。「教える」ということの意味に気づかされ、これを機に仕事に対しての考え方が変わっていったそうだ。

「今でも看護師に戻りたいと思う時はあります。勤めていた病院はダクタリ動物医療センターといって24時間、365日診療をしているところでした。そこにくる動物たちは殆どが重症で、そんな動物たちを見ていると目の前の命の大切さを強く実感させられました。母が昔からよく言っていた『生きているだけでいいのだから』という言葉が身に染みる毎日でした。そういう命の現場にいたからこそ、ペットロスに陥る人を減らしたいと常に思っています。死んでしまったことは現実で悲しい事ですが、その時まで共に過ごした楽しい時間がたくさんあったことを思い出してほしいです」
なぎささん27歳の頃、がんは完治していた母親だったがくも膜下出血で急逝。専門学校の校長だった母親がいなくなり、その校長という立場を継ぐことになる。

「私たちの頃は見て学べ、という時代でしたが今は違います。生徒たちに寄り添うことが大事ですし、充実した時間を過ごせるようにみんなでサポートしていかなければなりません。卒業した後にここで学べて良かったと思ってもらいたい。だからどうすればより良くなるか、常に先生方と話し合います。例えばトリマーの資格もいろいろな種類があり以前学校でとれた資格はあまり知られていないものでした。せっかく取った資格なのに、レベルが分からないと言われてしまった自分の経験から全国的に通用するJKC(一般社団法人ジャパンケンネルクラブ)のトリマーB級が在学中に取れるように東北で唯一のJKC公認研修機関になりました。そのために先生方全員にトリマーの資格を取りなおしてもらったという経緯はありますが、生徒の将来の事を考える思いはどの先生も一緒でした。そんな仲間たちに支えられ、毎日が楽しいです」
常にポジティブに突き進む牧野なぎささん。短い時間での取材だったが、はきはきと大きな声で話す彼女の内側から、周りの人が虜になってしまう不思議なエネルギーが溢れているのを感じた。

「偉ぶらないし最後はケツを拭いてくれるのが分かるので安心して仕事ができます。まっすぐでメンタル最強でパワフルな人。でも一言で言うと「変な人」(笑)」そんな風に学校を共に支えてくれる先生方から言われる校長先生は、人とも動物ともより良い関係が築ける人生のお手本となっていくだろう。
(取材:NAOKO)
学校法人孔明学園 東北愛犬専門学校校長 牧野なぎさ
両親が設立した専門学校で動物看護に関して学び卒業後東京の動物病院へ就職。母親の病気を機に仙台へ戻り父親が理事長、母親が校長を務める母校の東北愛犬専門学校で教壇に立つ。
現在はその専門学校の校長を務める傍ら、ペットサロンフレンドハウスのオーナーとして、更に良き妻良き母として日々奮闘中。